父と母
私の両親は
祖母(不動産業)に
土地を貰い家を建てました🏡
小さな敷地に
理髪店✂を構え
昭和の時代だったからか
随分繁盛していましたね😊
昔は
正月に新しい洋服を着て
新年を迎える
といった時代だったので
年末は超大忙し😆
何かの行事には
髪も綺麗に仕上げていく
って時代でした😚
仕事の片付けが
終わる時間が
12時はざらでした
翌日の2時になった事がある
そう母に聞いた事がある😅
母は食の細い
太れない体質で
頑張っていました😊
今思うと
寝込んだところを
見たことがなかった😫
朝8時から
夜は8時9時
凄いよね😌
尊敬します😊
父は
そんながんばった人生に
後悔はないだろうか😩
入院先の病室に行くと
他愛もない事を
良く話しかけています
そこに私が居るのに
テレビばかり見てる日は
気分も
気持ちも下がっててる
のかも😔
そんな日は
さっさと帰ります😌
母が居れば
父も愚痴や不安を
口にしていたかもしれませんが
私だと
その半分くらいしか話しません
今からの不安
思うように伝わらない気持ち
我慢しているのだろうと
感じながら
支えていくしかないよね😌
午前に
父の病院のワーカーさんと
次なる施設の希望伝え
優しく
「こちらも考えておきますね」
と、言われると
なんと心強い😢
私の支えです
ひとりでふたりを介護
不安ばかりです😖
先が見えない😔
かと言って
見捨てられない😰
かと言って
腹が立つ😫
かと言って
責任がある😵
「自分の人生がいちばん」
分かっているけど
気になるし
最後まで辛い時間を
少なくしてあげたい
と思う毎日です😌
夕方
母を病院に連れていくため
施設に迎えにいきました🚙
以前より
元気がない感じ😞
痩せたなぁ
40キロだって😔
髪も本人は染めたい
そう、希望している
が
白髪を伸ばしている
これだけは
母の意思は通せません😆
だから
髪の色は半分白👱
帰りに自宅を避けて
施設に向かう道のり
何も話をしない…母👩🍼
淋しく感じました😢
施設に着いて
施設の方が玄関先に出できて
お迎えに来てくれた😄
母は
素直に施設の方と
手を繋ぎ
何も反抗することなく
連れていってくれた✨
その母の後ろ姿が
淋しくもあり
可哀想にも感じて
帰り道は涙が止まらなかった😭
思い出します
祖母が施設に入るとき
母は涙を流していた
私は
なぜ
自分で入れようと考えたのに
泣くのだろうか😚
不思議に感じていた
祖母も施設へは
「行きたくない」
と言っていたのに
いつしか
言わなくなった
母は「諦めたのだろう」
そう口にしたことを
私はハッキリ覚えている
まさしく
今日の母は
諦めているのだろうか😫
最後まで幸せでいて欲しい
そう
私が考えていても
両親はそうでないかもしれない
では
私の自己満足に過ぎない
父に
歩けないから
家に帰れないと
私が言った時の気持ち
さぞかし辛い現実だと考えました😞
私はこの話は
繊細な話だからと
数日前から
口火をきる瞬間を
何度も想像していた😵
「歩けないから
自宅に帰れない
退院したら施設にいくしかない
だから
お金がいるのです
家の中のどこにあるのか」
この宣告とも言う
内容を
伝えるまで
苦しかった😢
ずっと
ずっと
苦しかったです
これを
2日に渡り
父に伝えました
ずっと数十年
主でがんばり
母とも仲良く♥
私と妹が出ていってからでも
母を支えて
すべてをやりくりして
頑張っていたのに
「全てを手放せ」
と宣告したような言葉を
父に伝えるのは
辛かった…😔
伝えられた時は
胸が撫で下ろされる気分でした😄
次は施設選び
少しづつ
少しづつ
前に進む怖さと
幸せにしてあげたい
その気持ちが交差して
モヤモヤしてるけど
少しづつ
前に進んでいる
人生において
両親の死は
自然の摂理
苦しさを伴うのも
これまた自然なのかな😌
「永遠の別れ」
なんと淋しい言葉だよね
人の一生って
辛いことが殆どだと思う
楽しい事は
ほんの僅か
だからこそ
馬鹿馬鹿しい事に
首を突っ込んでいる
場合ではないね
楽しい時間を
いかに沢山持てるか☺️
今からでも遅くはない🙌
そうして行くことが
幸せになる
幸せにになれる
自分の人生にしていく
僅かな努力かもね😊
愛媛のオレンジジュース🍹
また食べチョクで買っちゃった😆
(*^^*)